ここ2週間、アメリカ中が悲しみに包まれ喪に服しているかのようです。みなさんは、2001年9月11日の朝どこで何をしていたか鮮明に憶えていらっしゃることでしょう。朝8時45分位から1時間あまりの間に人生が後戻りできないほど全く変わってしまった人々が全国にたくさんいます。阪神大震災で亡くなられた方々の人数を超える数の方々が突然人生の終わりを迎えてしまったのですから、その方々の家族、友人、勤務先の同僚の方々の人数を数えれば、テロリストの攻撃で直接人生が変わってしまった人々は数万人にのぼるでしょう。また直接周囲の誰も被害を受けていなくても、テレビの画面に出る惨状と行方不明の人々を捜す悲しみで一杯の家族の方々の姿を見て深く影響を受けた人々の数は数えきれないほど多くあるでしょう。
出張中の私は、テロリストが搭乗した飛行機の一機が飛び立ったワシントンのダレス空港にその前夜到着し、空港付近のホテルに泊まっていました。8時45分位にミーティングが予定されていたワシントン郊外の会社に到着すると間もなく、ラジオを聴いていたその会社の従業員がワールド・トレーディング・センター(WTC)に飛行機が衝突したと伝えてくれ、事情を詳しく調べようとしているうちにもう一機衝突したというニュースが入り、騒然とし始めました。最終的に、重役会議が開かれ金融機関のデータベース関連の仕事をしているこの会社は、「テロリストの標的になる可能性がある」という判断で従業員を一部の不可欠の部門を例外として全員帰宅させることになりました。訪問客であった私たちも、「会社を出るように」と指示され、最寄りのホテルに送られました。緊急退避ということで玄関に来るとすでに武装したガードマンが立って会社を守る体勢になっていました。
それからは情報が混乱し、ダレス空港のホテルに帰ることができるか否か長い間不明でした。ニュースではワシントンD.C.の政府関連の人々も一斉に帰宅し始めワシントン郊外に向かう道路は全て大渋滞であるということでした。実際、後でダレス空港付近のホテルに向かって移動を始めるとワシントンから出てくる反対方向の車線は長い区間渋滞していました。次ぎの朝ワシントン市内のレーガン空港(ナショナル空港)からアリゾナに帰宅する予定になっていましたが、みなさまもご存知のようにレーガン空港は今でもまだ閉鎖中です。それからは飛行機の予約を変更したくても電話は混雑し、飛行場が開かれるかどの位の割合で飛行機が実際に飛行するのか不明でもあり、しばらくすると航空会社は「現在電話をお取りしておりません」というメッセージばかりになってしまいました。こんな時には次第にホームシックになるもので、できるだけ早く帰宅したいという気持ちになりますが、まったくいつ飛べるのか予想できない状態で3日ほど過ごした後に、「もう地上を運転して帰る方が早い」と思い立ち乗り捨てレンタカーでワシントンを出発しました。サンフランシスコからニューヨークへ、ボストンからロサンジェルスへ、と大陸をレンタカーで横断し始めた人々の数は相当にあったようです。ワシントンD.C.からバージニア州を南下しノースカロライナ州を40号線に乗って西に向かって一路運転し続けました。4、5日掛けてゆっくりとアリゾナに戻る予定でした。途中通過する町は地図で見ると、テネシー州ノックスビル、メンフィス、アーカンソー州リトルロック(クリントン大統領の故郷)、オクラホマ州オクラホマ・シティー、テキサス州アマリロ、ニューメキシコ州アルバカーキ、アリゾナ州フラッグスタッフなどでした。「随分遠いな」と思いましたが、ワシントンでいつ出発できるか分からない状態でいるよりは少しでも家族に近いところに毎日移動したいという気持ちでした。ワシントンD.C.から2日半かけてアーカンソー州のリトルロックまでは、森、林に囲まれた牧場、テネシー州のスモーキー・マウンテン(日本の山々と良く似ていました)、大きな川とほとんどが雄大な自然、穏やかな緑に包まれた大地を走る旅でした。そこで見たものは、テレビの画面に映るサイエンス・フィクション映画顔負けの惨状とは別世界の穏やかな普通の人々の生活でした。「こちらが現実なんだ」「アメリカは大丈夫だ」という安心感を与えてくれました。アーカンソー州のリトルロックの小さな空港まで辿り着くとやっとサウスウェスト航空フェニックス行き直行便のチケットをカウンターで買うことができ無事帰宅しました。本来の帰宅予定日から5日遅れての帰宅でした。大変でしたが、あの日家族の元に帰ることができなかった人々が6000人以上いることを考えると帰宅できたことがありがたく感じられました。
あの日、WTCの付近にある保育園では、いつも親が迎えに来る時間になっても誰も迎えに来なかった子供たちがたくさんいたということです。シングルマザー、シングルファーザーに育てられていたのに突然孤児になってしまった子供たちです。その日の朝子供たちを保育園に送り届けた時、「もう迎えにこれないしこの子たちにももう会えない」と思った親がいたでしょうか。ほんとうに人生はいつどこで終わりを迎えるか分からないものです。毎日毎日を大切に生きなければならないと思うと同時に、「明日はもうないかもしれない」という気持ちで「残される家族、大切な人たち」に対し自分が突然亡くなってしまた時の準備をしておかなければならないのだとも思います。
そのような思いを新たにしている今、不思議と「死」をめぐっていろいろな法律的、経済的な問題を解決しなければならなくなった方々を支援することが多くなっています。みなさまも、これを機会に「自分と家族」の現状の再点検をなさっては如何でしょうか。「備えあれば憂いなし」です。未成年のお子さんがいらっしゃる方々は、もし自分が「死」を迎えなければならなくなった時には生命保険などで家のローンその他の債務が全て返済でき、生活ができるように十分な収入を得る準備ができているか点検するのも良いでしょう。もし両親が同時に亡くなった場合の未成年のお子さんの法的な「後見人」を正式な文書、つまり遺言や信託などで明確に指示済みでしょうか?銀行口座など、夫婦の片方が突然亡くなるようなことがあった場合に、残った一方が即刻自由に使用できる体勢、つまり共同名義にしたり、一定の条件が起こった場合には夫婦相互にそれぞれ金銭的・財務上の処理を委任するという「委任状」を用意してあるでしょうか?日本と米国と両方での勤務の歴史がある方々は、それぞれの国で勤務した会社の名前と住所などを明確に記述して正式な文書にして自分にもしものことがあった時には簡単に見つけられるようにしておく必要もあるでしょう。このような記録があれば日本の国民年金、厚生年金からの遺族年金(未成年者への養育料も含む)、米国のソーシャルセキュリティからの遺族年金などの手続きが簡単かつ迅速にでき、家族が経済的危機に陥ることを防ぐことができるでしょう。生命保険などの証書や詳細が誰にでも簡単に発見できるような形式で保存されているでしょうか?愛する家族の死に直面し悲しみに溢れている人々が、経済的に困窮したり、様々な書類を探し回って奔走するというのはとても残酷なことです。長時間掛かる裁判所による遺産点検(プロべート)を回避するために、家族の信託を準備するのも良い方法でしょう。信託を準備することにより、裁判所が任命する弁護士によるプロべートのための費用を負担しないですみ、遺産相続その他の手続きもはるかに迅速かつ簡略にできます。
今月の記事は、いつもと一味異なった随筆のようなものになってしまいました。最後に今回ニューヨークとワシントン、ペンシルバニアで亡くなられた方々のご冥福を祈って終わらせていただきます。
みなさまも毎日毎日を大切に、ご家族のみなさまと共に楽しい生活でありますように。 合掌。