今回は、米国の陪審員制度について考えてみましょう。現在日本でも一時休止となっている「陪審員制度」を「裁判員」という形式で再導入することについての議論が行われています。先日、「裁判員」制度の導入を考えるというタイトルのシンポジウムが東京で開催され、講演を依頼されました。講演には出席できませんでしたが、スピーチ原稿提出という形で参加しましたので、今回はその内容をご紹介いたします。最近の米国最高裁は、アリゾナ州における、「陪審員ではなく裁判官による「死刑判決」が憲法違反である、死刑判決は陪審員によるものでなければならない」という判決を出しました。この判決の影響、日本における「裁判員制度の導入への示唆」などについて考えてみました。
米国の陪審員制度について
(シンポジウム:日本の「裁判員」制度導入を考える)

2002年9月13日
近藤ユリ
アリゾナ州弁護士
陪審員に関する最近の米国最高裁判例(RING V. ARIZONA :2002年6月24日判決)
画期的な米国最高裁判決をもたらしたこの裁判では、強盗の最中に起こった殺人について罪を問われた被告側とアリゾナ州(州民を代表する形で被告を起訴した検察側)が被告の死刑判決の適正性を争いました。この被告が無期懲役となるか死刑となるかの決定は、この殺人に関してより罪を重くする要素(犯罪が金銭目当てであったか、過去の犯罪で有罪になったことがあるか否か、または通常以上の残酷性があったかなど)が存在したか否か、そしてその要素を相殺するような情状酌量の余地があるか否かという判断によるものでした。この被告に対して「有罪」の評決(Verdict)を下したのはアリゾナ州民から構成される陪審員たちでした。しかし、アリゾナ州法に従い上記の要素を考慮した結果「刑」を決定したのは、この事件を担当した裁判官であり、被告に対して「無期懲役」ではなく「死刑」の判決を出しました。
この判決に対して被告側は、控訴し、州の高裁、最高裁を経て、さらに米国最高裁の判断を仰ぐことになりました。米国最高裁は2002年6月24日に、「アリゾナ州法は、米国憲法修正第6条が被疑者に保証する公平な陪審員により裁かれる権利を侵害しているので憲法違反である」という判決を出しました。同判決では、有罪の評決のみではなく刑の決定に関しても、刑を重くする要素または情状酌量の余地が存在するか否か、両方が存在する場合にはそのどちらがより強い要素であるかを判定する際に陪審員の参加なく裁判官のみで決定した場合は憲法違反つまり無効であるという明確な結論を出したのです。裁かれる者の生死を握るのは政府側の代表である裁判官ではなく国民、州民、つまりコミュニティを代表する陪審員であるいうことを明確に最高裁の判決として確認したのです。この判決により、州独自の死刑判決の手続きが「米国憲法違反」となる可能性がある州は9つありますが 、アリゾナを含むそれらの州のいくつかで、今回の米国最高裁の判決を受けてすでに法改正が行われたか、または法改正準備が行われています。
この米国最高裁の判決の前後に、新たな最高裁判決により死刑判決が無効となる可能性のある数人の死刑囚の死刑執行が数時間前または数日前というタイミングで延期されました。今後これらの州内で収監されている死刑囚たちの中の多くが、自らの死刑判決が今回の最高裁の判決に照らして無効であるという裁判を起こすことが予想されています。
米国憲法修正第6条:陪審員による裁判を受ける権利の保証
 州の最高裁の判決を覆してまで米国最高裁が今回の判決により再確認した「公平な陪審員による裁判を受ける権利」の源は、米国憲法修正第6条にあります。 しかし、米国憲法修正第6条は、全ての者が全ての裁判において「公平な陪審員による裁判を受ける権利」を保障するかというと、そうではなく一定の制限があります。刑事事件において陪審員による裁判を保証されるのは、通常、検察側により「懲役または禁固6ヶ月以上」を求刑されており、被告が6ヶ月の懲役または禁固以上の刑罰を受ける可能性がある場合であり、被告は陪審員による裁判を受ける権利を要求することができます。民事訴訟の場合もどちらかの要請により陪審員による裁判を受けることができますが、時により両当事者がこの権利の放棄を明確に宣言すると、裁判官のみによる裁判となる場合もあります。
陪審員の構成
通常、陪審員の人数は12人ですが、時によっては事件が死刑などの求刑を含む重罪事件でない限り6人という構成で裁判を行うこともあります。死刑という極刑が求刑されている事件の場合には、陪審員の構成は最大の12人となり、有罪という評決を出すためにはこれらの陪審員の全員一致が必要とされます。起訴するか否かを決定する大陪審の場合は、通常12人から16人の陪審員構成となります。
陪審員と裁判官の役割分担
実際の裁判の過程において陪審員と裁判官は、前者が事実に関する判断(評決)を行い裁判官が法律の解釈と適用に関する判断をする責任を負うという役割分担をします。陪審員は、事実審理(トライアル)の過程で、民事事件であれば原告側と被告側、刑事事件であれば検察側と被告側それぞれの主張を聞き、証拠物件を参照にしてどちらの事実関係の主張が正しいか評決を下します。その際に、裁判官は法律の適用の観点から、民事事件であれば「どのような事実関係であればどちらが勝訴するか」、刑事事件の場合は「どのような事実関係であれば被告を有罪とするか、どの事実関係であれば被告を無罪とするか」という詳細な判断基準を「陪審員に対する指示」として与えます。この指示に従って陪審員たちは事実関係を判断し評決します。
陪審員となる資格
陪審員となるためにはどのような資格が必要でしょうか。陪審員は、特定の裁判が行われる地域の成人構成員(アリゾナ州では18歳以上の米国市民)で過去に重罪で有罪になったことがない者または有罪になったが公民権が復活された者、現在精神病者または無能力者と法的に宣言されていない者たちの中から無作為抽出で選ばれます。 特定の地域(裁判管轄区)に住む住民の中から選挙人名簿、自動車免許証情報などをベースとして無作為に選ばれた人々には、裁判所からその旨通知が来ます。当該地域内の住民を厳密に分類していないままに無作為抽出を行うために、本来なら米国市民にしか来ないはずの通知が外国人のところに来ることもあります。その場合は、「米国市民でないため、裁判において陪審員になる資格なし」と返信することにより、陪審員としての義務を逃れることができます。陪審員として選出されたという通知を受けた市民は、裁判所書記官である陪審員コミッショナーにより質問表などを使用してさらに適正性を調査され、二重に選抜されます。また、陪審員の側から、職務上指定される期間に陪審員としての義務を果たすことができない、自らまたは家族の病気、自宅から裁判所が極めて遠距離である、経済的に極めて困窮しているなど様々な理由でその義務から解放されることを要請し、許可されることもあります。その結果、実際の法廷で陪審員として義務を果たす人々の構成は、当該地域社会の構成員比を必ずしも反映しない場合が多く、すでに職場を引退した高齢者、専業主婦、その他の時間に余裕がある自由業者の数が他より多くなるというような傾向もあります。
通常はこのようにして選出された陪審員候補が実際に法廷において、刑事事件であれば検察側・被告側、民事事件であれば原告側・被告側と対面し、それぞれが「不適任」とする者を一定の規則に従って除外した結果正式な陪審員が任命されます。
陪審員としての義務・特典
陪審員として裁判所における義務を果たすための期間、勤務先はこのための無給欠勤を許可しなければならず、裁判所で陪審員を務めるための欠勤を理由として解雇または差別的待遇をしたりすることを禁じられています。 この意味では、企業、政府事務所など陪審員の勤務先も地域社会の一員としての義務を果たしているのです。陪審員は、陪審員として裁判所で義務を果たす期間中、食費、宿泊費、交通費その他の名目で日当を支払われますが、多くの場合大変小額であり、交通費にも足りないこともあります。ちなみに、私が現在住んでいるアリゾナ州マリコパ郡においては、陪審員はガソリン代(1マイル当たり34.5セント)と一日当たり12ドルの日当を支払われます。この費用は刑事事件であれば、その裁判所が所在する郡の負担、民事事件であれば、敗訴側が負担します。裁判所によっては、地域の交通機関と交渉し陪審員が裁判所に通うための交通費を無料とすることもあります。
アリゾナ州法によると、陪審員としての義務を果たすために裁判所に出頭するよう通知された者が正当な理由なく無断で欠席すれば法廷侮辱罪に問われ、出頭を強制され、罰金の対象となります。 陪
審員は、刑事・民事の事実審理(トライアル)で評決を下すばかりではなく、刑事起訴するだけの根拠が存在するか否かを決める大陪審(Grand Jury)においても重要な役割を果たします。
陪審員による裁判の特徴
陪審員の貢献:もちろん、陪審員制度にはプラスの面があります。陪審員が裁判に参加することにより、刑事事件の被告、民事訴訟の両当事者は、法律の専門家である裁判官のみにより裁かれるのではなく、一般の市民が構成する、そして特にそれらの刑事被告人、民事訴訟の当事者たちが日常暮らしているコミュニティの構成員である一般市民、つまり自分たちと共通点をもつまたは市民としての感覚・価値観などを共有する者たちに事実審理および刑罰の決定をしてもらうことができるという利点があるのです。これは、社会が変化して行くにつれ変化するコミュニティの構成員の考え方や感覚が事実審理における評決や刑罰の決定に影響することを意味し、社会の変化を裁判の過程により敏感に反映させることができるという利点を伴います。
 実際に私が数多くの裁判の過程で観察した米国一般市民の陪審員としての働きぶりには、印象深いものがありました。ごく普通の市民であるこれらの陪審員たちは、自らの能力の限りを尽くして裁判の争点の内容を理解すべく努力し、公正な評決をしようとしていました。高度の専門知識を必要とするようなハイテク特許裁判、独占禁止法裁判などにおいても、彼らは専門家証言に熱心に耳を傾け、真剣に同僚の陪審員たちと議論していました。中には、陪審員による評決を「通常の常識ある陪審員による評決であれば、このような結果にはなりえないものである」という理由で、裁判官が逆転させて勝訴者と敗訴者を入れ替えてしまったハイテク特許裁判もありました。しかし、私がこれまでに関わったり観察したほとんどの事実審理(トライアル)場合、裁判官は陪審員の努力に誠実に感謝し評決の結果を尊重していました。多くの裁判官が、知識や社会的地位という観点からは自分より劣ることが多い陪審員の人々に対して事実審理の間中、その過程における主役として尊敬と感謝を示していました。
 問題点:陪審員が参加する裁判にはどのような特徴があるのでしょうか。陪審員が事実関係に関する評決を下す「事実審理(トライアル)」においては、裁判の両当事者が自分に有利な評決を導き出そうと必死に物的証拠、証人という人的証拠の両方を駆使して議論します。裁判の勝敗を握る陪審員の前で行われるそれぞれの側の議論は、しばしば陪審員に自らの側に有利な印象を与えるためのパフォーマンスと化します。容姿端麗、弁舌さわやかな、人を引き付ける魅力を持った弁護士が陪審員に人気を博し裁判の結果を左右してしまうということもあるでしょう。企業同士の特許裁判などが陪審員を伴って行われる場合、難しい技術的な議論を陪審員に理解してもらうべく、ハイテクの限りを尽くし、コンピュータ・データベースを駆使したマルチメディアの色も鮮やかな証拠物件をスクリーン上に提示したり、信憑性の高い専門家に証言させ、陪審員により良い印象を与えようと互いに相手側と競争します。事実審理(トライアル)に際して証人の証言を陪審員に印象付けるために、トライアル専門の弁護士は「証言を行うための」準備という名目で、ほとんど「証言訓練」というような指導を証人に対してします。詳細を極めるこの準備は、究極的には事実審理の担い手である陪審員を味方にしようとする両当事者間の競争そのものです。この過程は、まるで陪審員を観客とする「舞台芝居のパフォーマンス」のようにも見えます。
この傾向には、問題点もあります。時により、パフォーマンスとしての性質が強くなる余り、真に重要な証拠提示やその他裁判の行方に極めて重要な要素が霞んでしまうこともあります。資金がより豊富な当事者が資金力にものを言わせて準備した証拠提示方法で、資金力がなくマルチメディアなどを使って準備することができない相手側に差をつけてしまう場合もあります。このような資金力の差が裁判の行方に影響がないと言えばうそになるでしょう。
冤罪による死刑囚。イリノイ州知事により組織された「死刑に関する委員会」の報告によると最近のDNA技術レベルの向上に伴うDNA再検査により無罪が判明した死刑囚の数は100人にも上るという報道もあります。 これらの死刑囚のうち裁判官により死刑判決を受けた者と陪審員の評決により死刑判決を受けた者との比率は現時点では不明ですが、相当な数の者が陪審員による評決の結果死刑の判決を受けたであろうことを考えると、陪審員制度にも問題があることが分かります。100人以上の「無実の死刑囚」を作り出すことを回避できなかったということになるのですから。「公平な陪審員により裁かれる権利」は、必ずしも無実の被告人に対して有罪の評決が出ないように保証することはできないのです。しかし、それでは、これらの無実の死刑囚たちが死刑の判決を受けたときに裁判官のみによる判決であれば無罪になっていたかというと、そうとは限りません。しばしば、陪審員の評決を無視して裁判官がより重い刑に変更するということもありますし、陪審員の間で意見が割れて結論が出ない場合に裁判官がより重い刑罰を決定するという場合もあります。
無実の死刑囚が100人単位で存在することが分かったという米国の現実ですが、この事実は理論的に考えれば、陪審員制度が正式に開始されて以来(つまり米国建国以来)これまでにも数十人、数百人のレベルで無実の死刑囚の死刑が執行されてしまったという可能性があるということを意味します。この中には死刑を決定したのが裁判官であった場合も陪審員であった場合もあるでしょう。前にも述べましたように、州の制度として裁判官が最終的に刑罰を決定する、またはその可能性があるという州は全米で9州であったわけですから、その他の大多数の州では陪審員が刑罰を決定する制度を採用していることになります。米国憲法で保障されている「公平な陪審員による裁判を受ける権利」が必ずしも刑事被告人に有利にはならないということを意味しています。現在米国において犯罪人として刑務所に収監されている者のうち黒人、ヒスパニック系などの少数民族者の数は人口比率と比較するとはるかに大きな割合を占めています。死刑が確定している者も含め、これらの有罪が確定した者たちの中には陪審員による誤った評決の結果収監されている者もあるでしょう。無実ながら死刑囚として死刑執行を待つ者の数も、これまでに分かった100人を超える相当に大きな数に上ると推定されます。 そして、その中には陪審員の人種的偏見・社会的な差別観の結果無実にも関わらず「有罪」の評決、死刑判決を受けてしまった者も存在するであろうと想像できます。
日本における「裁判員」制度導入への示唆
 米国における陪審員制度の歴史とその実際上の運用は、日本において導入が予定されている「裁判員」制度にどのような示唆を与えるでしょうか。官僚制度の一部を担う職業的裁判官による裁判が行われてきた日本において、実際に市民が裁判に参加するようになる制度が導入されることは、積極的に評価すべきでしょう。市民の側が勝訴する例が極めて少ない日本の行政裁判などを見ても、国民に公平な裁判を受ける権利が保証されているか否かは疑問が残るところでしょう。一般国民が「裁判員」として裁判官と共に裁判に参加することにより、市民にとってより納得できる裁判の結果をもたらす方向に貢献する可能性もあります。一方では、時によっては一般人としての感覚に欠けることもある、社会の変化に敏感ではないかもしれない職業的裁判官に対する牽制、補佐役を果たすこともできるでしょう。しかし、この裁判員の参加がどの程度の参加になるのか、実際に裁判官の判断から独立して独自の決定を出したり、判決に重大な貢献をすることができるのか否かによって、結果は異なるでしょう。市民の「裁判員」としての参加が裁判官に参考意見を述べるためのみを目的とするものであり、最終的判断はあくまでも裁判官が下す、つまり「裁判員」の意見を参考にするのみで、「裁判員の意見」に何の拘束力もないということであれば、裁判の専門家である裁判官の知識、威厳、法的権限などに圧倒されて、陪審員はただのオブザーバー(観察者)になり、「裁判員」の影響力は無いに等しいという状況にもなりかねません。特に、「裁判員」の導入が刑事事件にのみ限定される場合、複雑な刑事訴訟法、刑法などの知識に欠ける一般市民「裁判員」の影響力にはあまり期待できないかもしれません。そのような場合は、「裁判員」制度を導入することにより、「裁判所の決定は、「裁判員」も参加する真の民意である」という虚構・アリバイのための口実を作ってしまうでしょう。
 「裁判員」の側からみると、米国の場合には長年の伝統による陪審員制度の下で一般市民は死刑を求刑された刑事被告人の裁判において、有罪・無罪の決定ばかりでなく、刑罰の決定、時には死刑という被告の生命を奪うことになる重大な刑罰を決定する主体となることがあるのですが、日本における「裁判員」制度の導入により、一般市民は「裁判員」としてどの程度の責任を担うことになるのでしょうか。数年後にこの制度が導入された場合、一般市民は刑事被告人の運命、時には生死の分かれ目になるような決定に参加する準備ができているのでしょうか。
 いずれにしても、現在日本において「裁判員」が具体的にどのような役割を果たすことになるのか、審議会でどのような内容の議論がなされているのかも含めて、できる限りの情報公開を行い、国民的なレベルで「裁判員」の役割、長所、欠点、問題点、日本に独自の特徴などについて活発に議論する必要があるでしょう。