契約とは


皆様、楽しいお正月をお過ごしになりましたか?

早くも2015年1月は終わろうとしています。1年が経過するスピードが毎年速くなって行くような気がするのは私だけでしょうか?

今回は、契約についてお話しましょう。契約とは、いつの時点で何をもって成立するのでしょうか?つまり、いつの時点から契約当事者間に契約の条件・条項を実施する義務が生じるのでしょうか?いつの時点でなにをもって、契約の内容である自分の方の義務を遂行しないと、相手側から義務遂行を要求され、それでも契約条件・義務を遂行しないと、相手が訴訟を起こしたりした場合に、当該義務の遂行を裁判所命令として実施するように強制されることになる可能性が生じるのでしょうか?

この疑問はみなさんの頭の中でも常に生じている疑問ではないでしょうか?

1. 契約により相互に遂行義務を生じさせるためには書面によるものでなくてはならないものでしょうか?

回答:書面による、つまり契約書として書面によるものでなくても契約は成立します。例えば、当事者1が「この車(具体的に自分が所有するHONDA CIVIC 2010モデルなど)を$1000で売る」と提示(オファー)し、当事者2が「それでは$1000でその車を買う」とその条件を受け入れた(Acceptした)場合、全てが口頭であっても基本的にはその契約は理論的には成立したことになります。勿論、内容としては、何を売買の対象としているか、価格、いつの時点か(契約した日の日付)、いつ支払を実施し対象物の引き渡しが行われるのかという具体的な条件が表明されなければなりませんが。

2. いつの時点で契約の条件の実施が義務付けられるのでしょうか?

回答:契約の条件が当事者1から当事者2に提示(オファー)され、その条件を当事者2が受け入れた(Acceptした)時点で契約が成立したことになります。もちろん、理論的にはこれで契約が成立するのですが、口頭ですと、当事者同士で「言った」「言わなかった」と矛盾する主張をすることになる可能性もあり、証人がいない限り、「泥仕合」状況になってしまうことが多いため、通常は書面による契約がより好ましいものとされており、正式な契約書を作成し、双方がそれぞれ当該契約書に署名し、契約書のオリジナルを2通作成し、署名後にそれぞれの当事者が1部づつ保存し、契約の内容が後の時点で不明瞭になったり、ずれたりしないようにします。

3. 契約書というのは正式に「契約書」とタイトルがついた書類でなければならないでしょうか?

回答:契約書として機能する文書は「契約書」というタイトルがついた書類である必要はありません。例えば、メールの交換で、上記のような条件を満たすやりとりがあれば、つまり当事者1から基本的に条件の提示(オファー)が当事者2に対して行われ、その条件を当事者2が受け入れれば(Acceptすれば)契約は成立したことになります。正式な契約書がなくても、メールの交換で当事者2が契約条件を受け入れる意図を表明し、そのメールが当事者1に到達した(メールを受領した)時点で契約が成立します。厳密な意味では、そうしたメールを交換した後では、当事者双方に契約条件の遂行義務が生じるものであり、そのどちらかが自らの契約上の義務を遂行しない場合は、法律上相手側から当該契約義務の遂行を求められ、裁判所の手続きを経て、義務遂行を強制される可能性が生じることになります。

最近、私自身が、上記の事情を全く理解しておられないと思われる方々から一定の作業を電話やメールで「依頼」され(契約成立の条件を100パーセント満たして)、こちらが契約義務を遂行したにもかかわらず、相手側が契約義務(主として支払い義務)を遂行しないというケースがいくつか続けてありました。「?」と頭をひねるようなケースでしたが、もちろん小さな出来事で裁判所の力を借りるというような意図は毛頭ないのですが、相互の約束(法的契約)というものを全く理解していないと思われるような行動でした。数件続けて同じようなケースがありましたので、少し悲しく思うと同時に、契約について少し書いてみようと思う動機になりました。

もう少し詳細にコメントすると、弁護士として活動するようになってから約20年、日本人の方々(在米および日本に在住する日本人の両方)と契約したり、弁護士としてお手伝いをする中でこのような社会的な「原則」や「約束」を無視し相手の立場を思いやるという配慮がない行動には稀にしか直面しなかったという事実、そしてこのような行動様式の変化を比較的若い世代の日本人の方々の中(そして主として在米日本人の中)に見るという事実があります。世代の交代とともに、互いの言葉や約束を基本的に信頼できるという日本人同士の原則的信頼感が変化してしつつあるのだろうかという疑問も浮かんできます。そうだとすれば、悲しい現実なのかもしれません。これまでよく聞いた比較として、「日本人は性善説から人との付き合いを始め、米国では性悪説から人との付き合いを始める」という一般的な特徴付けがありましたが、それも変化しているのでしょうか。日本人同士でも、言葉や約束を信ぜず、基本的に相手を信用しないという原則から出発しなければ(「人を見たら泥棒と思え」など)ならないとしたらとても悲しいことです。

社会のメンバーとして相互の信頼、約束・契約の遵守を原則として行動するということは基本的に大切なことと思います。この記事が契約とは何か、相互の信頼とは何かということをもう一度、皆で考えてみる機会になれば幸いです。私個人としては、やはり、「性善説」の世界にいたいなと思います。