ハーグ条約


今国会中5月にハーグ条約加盟法案が成立するという予定は、明確になってきました。
今回は、一般的にハーグ条約について様々な観点から表明されてきた懸念、矛盾点などについていくつか考えてみましょう。これまでに指摘されてきた懸念や矛盾点は、日本国憲法、ハーグ条約より少し後に制定された国連「子どもの権利に関する条約(UN Convention on the Rights of the Child:1990年11月20日成立)」、「欧州子どもの権利実施に関する条約(European Convention on the Exercise of Children’s Rights: 1996 年1月1日成立)」などの条文との矛盾を含みます。

国連「子どもの権利に関する条約」
「子どもの権利に関する条約」は米国(米国は同条約に加盟するための署名済みですが、まだ批准していません)とソマリアを除く世界の193か国が批准済みであり、同条約第2条は「子どもに関する措置をとるにあたっては、子供の最善の利益(Best Interest)を主として考慮する」と規定しており、第12条は「法的手続きにおいては子どもは直接的または代理人を介して間接的に自らの意見を表明する権利を有する」と規定しています。また欧州人権裁判所は、最近「子どもの利益を害する返還命令は子どもの権利条約に違反する」という判決を出しています。

ハーグ条約の下で子の返還をなすべきか否かについての連れ去り先の裁判所における比較的簡易な判断の過程と上記の「子は意見を述べる権利がある」とする主張は緊張関係を生み出します。子の権利を謳う上記の諸条約と、子の意見は尊重するものの返還すべきか否かの最終判断は裁判官の裁量次第で決まるとするハーグ条約の運用は相容れない側面を持っていると言わざるを得ないでしょう。このような緊張関係はこれまでの諸国の判例でも見ることができますが、条約加盟後の日本の裁判所において実際にはどのように展開されるのかは将来の一定の数の判例が出るまでは推定の域を出ません。

ハーグ条約の運用としては、不法に連れ去られた子を返還すべきか否かは連れ去り先の裁判所が簡略的に判断すべきであり、詳しく子の意見や専門家の意見を聞いたり、子の「最前の利益」について深く考察すべきは、実際に親権・監護権を決定する役目を負う常居所国の裁判所の仕事であるという見解もあります。つまり、まずは子を元の常居所国に返還し、その後に当地の裁判所で争えば良いとしているのです。このような意見に従えば、実際に子が元の常居所国に戻った場合のリスクやどのような結論が子の「最善の利益」であるのか考察しないままに子が(連れ去り親が元の常居所国に戻れない事情:刑事罰や滞在許可の問題などがある場合には)連れ去り親と半永久的に強制的に離別させられ、元の常居所国に返還されることになります。これでは生身の人間(子)のその後の人生を決定することになる過程としては安易に過ぎるという批判が出ても当然かもしれません。

また、ハーグ条約で定める「不法な連れ去り」つまり違法な出国という概念は国連の「子どもの権利に関する条約」第10条2項に定める子および親の出入国の自由という概念に違反するという考え方もあります。「子どもの権利に関する条約」との関連では、子の意見表明権を保障しているが、ハーグ条約の規定では「連れ去り親」が日本に逃れてきている場合、日本の裁判所は裁判官の「裁量」で例外規定(同条約第13条)の一つである「子が返還に反対しており、そのような意見の表明ができる程度に成熟している」に当てはまると判断した場合には子を返還しないと決定することもできるのであり、子の「返還に反対の意見」にも関わらず「返還の決定」が下され、執行されるというケースもあり得ます。このようなケースが起こった場合は、「子どもの権利に関する条約」に違反することになります。

移動の自由に関する権利
日本国憲法との関連では、「転居の自由」は日本国憲法で基本的人権として認められる権利ですが、ハーグ条約との関連では、日本人の母が子を連れて母国である日本国に戻る場合に、状況によりこれを「不法な連れ去り」と規定し子の連れ戻しを命令することを日本の裁判所に義務付ける側面があります。これは「転居の自由」を基本的人権として認めている日本国の裁判所が米国法、ハーグ条約に従ってこの権利を認めないという状況を作り出すことになりますが、どのように法的な理由付けの下でこのような判断を下すのか疑問が残ります。「転居の自由」を認めないことは「違憲」であるという判断との兼ね合いはどう処理されるのでしょうか。

DV(家庭内暴力)の扱い
ハーグ条約第13条(b):「返還することによって子が心身に害悪を受け、又は他の耐え難い状態に置かれることになる重大な危険があること」との関わりで、家庭内暴力DVの問題はどう扱われているのでしょうか。上記の条文をそのまま単純に解釈すると返還命令の例外規定としては、子に対するDVがある場合に適用されることになります。米国第六巡回控訴裁判所は、1996年に子に危害が及ぶ危険がある場合でも、子の元の常居所国がその危害を評価し必要に応じて保護することができる限り、子を常居所国に返還すべきであるという判断を下しています。Friedrich v. Friedrich, 78 F.3d 1060 (6th Cir. 1996) この判断に従うと、実際に子の返還を要求する親からの子に対する暴力などの危険があるか否かの詳しい調査と決定は子を常居所国に返還した後に当地の裁判所が行うべきであるとし、その調査期間中の子の安全を保障する制度があればよいということになります。連れ去り親が元の常居所国において刑法上の犯罪人(誘拐犯など)として訴追されているとか、当該国において生活するための滞在許可を有さないなど理由で子と共に常居所国に戻れない場合には、子が常居所国に戻ってからもう一方の親から暴力など危害を加えられる危険がないか否かの調査期間中は里親の元で過ごすことになったなどというケースもあり、両親の両方から別れて暮らすことになるため「子の最善の利益」を守ることにはならないという議論も成り立ちます。

日本の対応国内法案においては、連れ去り親に対する子の返還請求者である親によるDVがあったまたは将来起こる可能性が大であるという理由も、上記の第13条(b)の子に重大な危険があることの中に入れ、広範囲な解釈を用いる条文になっています。これまでの諸加盟国における判例を見ると、主に子についての重大な危険が問題となり、連れ去り親に対するDVは返還を阻止する理由としては採用されないというのが主流であるように思われます。少数例としては、連れ去り親に対する返還申請親からのDVを理由に返還しないという決定をした判例もあります。日本の場合には、法案がそのまま修正されないで法律として成立すれば、この「少数派」の意見を主張することになるため、米国などから批判される可能性も大であろうと思います。実際のケースがどう判定されることになるのかについて、元の常居所国におけるDVの証明を日本の裁判所がどの程度要求するようになるのかなど不明な点が多く、現段階で予測できません。

ハーグ条約の運用については、当該国の憲法や諸々の普遍的基本的人権や子の人権に関する国際条約に違反するという観点からの批判は時を追って増えているというのが現状のようです。ハーグ条約という国際条約の実施や解釈は、加盟国それぞれの対応国内法や裁判官の解釈によって異なった判例が出てきているというのが実情です。日本がハーグ条約の加盟国となった後ではどのような判例が出てくるのでしょうか。日本の同条約加盟を目指して政治的な圧力をかけて来た諸外国を満足させるような「不法に連れ去られた子の常居所国への返還」がスムーズにまた大多数の場合に実施される状況になるのでしょうか。日本の国内では、ハーグ条約加盟そのものについても、反対派と賛成派に意見が分かれています。また条約の条文に使われている用語をいくつか取ってみても条約加盟諸国におけるまた日本国内における解釈も統一されておらず、それぞれの加盟国、裁判所が異なる解釈を展開する可能性が大です。「常居所国」、「不法な連れ去り」、「監護権」、「重大な危害のリスク」。。。用語のいくつかを拾ってみただけで、それぞれが広範囲な解釈の対象となっており、バラバラであるのが現状、統一的な詳しい定義は存在しないということを思い出していただけると思います。単純に統一的な解釈でそれぞれのケースが解決されそうもないという感触を得ているのは私だけではないでしょう。今後数年経過してみないと、日本における具体的な判例の傾向も見えて来ないでしょう。

ハーグ条約関連のケースを取り扱う裁判官についても、国により、英国やドイツなどのように専門化されている場合もあるし、米国のように専門化されておらず一般的に様々なケースを取り扱う連邦裁判所または州裁判所裁判官などがハーグ条約関連の「返還」決定を行っている場合があります。後者の場合には、ハーグ条約そのものについて比較的浅い知識しかなく、一貫性がない判断が出てくる可能性が大きくなります。日本の場合も、裁判官、弁護士、中央当局となる外務省といった関連の人々が条約そのものを統一的に理解し、日本の対応国内法を理解し、スムーズに運用できるようになるまでには相当な時間が必要ではないかと思います。外務省のハーグ条約関連のホームページ情報などを見ていて気付いたことを一つ例として挙げてみると、「監護権」を有する親のみが連れ去り親に対して「子の返還」を求める請求ができるという理解であり、しかもこの「監護権」の解釈は離婚裁判などで「親権(Custody)」を与えられたまたは婚姻が継続しており両親ともに親権を持っている場合とされています。しかし、ハーグ条約関連の判例を見ると親権を持たない親でも子との面会の権利を持ち裁判所が離婚の手続きとして「裁判所または相手の親(親権がない場合も含め)の同意がない限り州外へ移転してはならない」という離婚後も有効な命令を伴っている場合、またはそのような命令が有効である離婚係争中である場合は、親権(Custody)を持たない親も「監護権」を有すると解釈された判例があるという複合的な理解を示していません。このような単純化した外務省の理解を広範に普及させることになれば、相手が正式な親権を持たないので、ハーグ条約適用外であろうと思って安心していた「連れ去り親」が突然「子の返還」を請求するもう一方の親からの要求に日本の裁判所で対処しなければならなくなるというような状況が起こり得ると予想され、広報情報の内容が不十分であるように感じます。

国際結婚をしている当事者たちにもハーグ条約加盟の事実、条約そのものへの理解、日本以外の国を常居所国とする場合にはそれぞれの国の関連国内法などについての情報を伝達する必要があるのですが、それを短期間に効率的に行うには大きな努力が必要でしょう。これまでも国外で生まれた子供についての「国籍留保届」手続きの必要など重要な情報でも知らないまま外国滞在中に子の日本国籍を喪失させてしまった日本国民が数多くいるという事実を考えると、情報が周知されないまま、知らぬが仏で過ごしてしまう日本国民が数多く存在することになるのではないかという危惧もあります。

権利の侵害があった場合の救済
日本弁護士連合会は、2011年2月18日付けの「「国際的な子の奪取の民事面に関する条約」(ハーグ条約)の締結に際しとるべき措置に関する意見書」の中で、日本がハーグ条約に加盟する場合には同条約の実施が「国際人権規約」や「女性に対するあらゆる形態の差別撤廃に関する条約」で保障される権利の侵害があった場合には個人が人権条約委員会に通報できるような制度を担保すべく、日本政府は上記2条約の選択議定書を含む「個人通報制度」を受け入れ批准すべきであるという意見を述べています。これも、日本政府側としては、簡単に認められない条件と思われ、このような制度を日本国内で採用させるためには国民の大きな努力が必要となるでしょう。

今年の5月にハーグ条約加盟の運びとなると予想される日本、今後実際の運用がどうなるのかその行方が気になります。今後も折に触れ、ハーグ条約関連の記事をお送りしたいと思います。