2011年6月
日本政府による「ハーグ条約加入」の決定について
今回は、最近の日本政府による「ハーグ条約加入」の決定についてお話ししましょう。ハーグ条約については、数年前にテネシー州出身の米国人男性(日本国籍も保有している)が日本に出向いて自分の子供を登校途中の路上で母親の手から奪い取り、車で米国領事館に逃げ込もうとして門前で拒否され、逮捕されたという事件について記憶されている方も多いことでしょう。この時にも、ハーグ条約への日本の加盟について取り沙汰されました。片親が外国から子供を日本に連れ帰り、当該外国の裁判所の親権などに関する決定に関わらず、日本に親子ともどもとどまり、もう一方の片親が子供の当該外国への返還を求めるという事件が多く存在するようですが、現在の日本の国内法では、当該外国の裁判所の決定に基づいて子供を返還するという仕組みはありません。個別に裁判所で争うことになりますが、長期間にわたって埒が明かないという状況になることが多いようです。
外務省によると、日本人による一方的な子の連れ去りが問題になっているのは、米国100件、英国38件、カナダ37件、フランス30件などであり、米下院とフランスの上院により日本に条約加盟を求める決議が採択されており、世界中で欧州、北米、南米諸国を中心に84カ国が同条約に加盟しています。主要7カ国(G7)では日本のみが非加入となっています(日経新聞2月15日記事)。
日本政府は、このところ強まった圧力をかわすということもあり、相当性急に条約加入を決定したとうのが現状のように思われます。この条約加入に関しては、日本国内でも賛否両論で両者は拮抗しているようです。というのも、逆の側から状況を見ると、家庭内暴力(DV)などを逃れて日本に「逃げ帰った」女性と子供や、また回教国での結婚生活で女性や子供の権利などが抑圧されている、離婚をすれば親権など全ての権利は夫側のもので子供を置いて帰国しなければならない、移民法上の事情で離婚すれば居住許可を失い当該外国の国籍を有する子供と別れて帰国することになる。。。などの事情で日本に「逃げ帰った」場合などもあるようで、全て当該外国に送り返せば子の利益や日本人親の権利を守ることができるという単純な問題ではありません。日本政府はこれまでは「邦人保護」を名目に非加盟の態度を保持してきました。
また、加盟反対者たちの間で、外国で裁判になった場合の費用や言葉の壁、人種差別などへの懸念も表明されています(同上記事)。またアジアの国々では加盟国が皆無であるということも注目に値する事実です。
日本政府は、同条約に加盟しても、単純に全ての場合に子供を当該外国に返還するという方針ではないということを明示しています。現在検討中の国内法改正案には、帰国した妻子らの連れ戻しを拒否できるケースとして(1)子どもが申し立て人から暴力を受けた、(2)子を連れた親が申し立て人から暴力を受けた、(3)子を連れた親が元の居住国に入国できない、(4)返還することで子供に害を与える。。。ことを証明できれば拒否できるという条項が含まれているということです(日経新聞2011年5月15日記事)。また条約は、「返還が子供の心身に重大な危険を及ぼす場合」などの例外規定を設けているので返還は義務づけるものではないとしています。条約事務局によると世界中で2003年に加盟国間で子の返還を求める訴えは約1300件、このうち連れ去られた先の裁判所が返還要請を拒否した例が20%あったということです(日経新聞2011年2月15日記事)。
今回の日本政府のハーグ条約加盟の動きについて、日本と米国の間の離婚訴訟や親権の争いに関わってきた弁護士としての経験から直感的な感想を述べると、単純に問題解決に導くまたは問題解決の方法が改善されたとは思えません。上記のテネシー州出身の米国人男性と日本人元妻との間の争いも、日本に居住していたところ、元妻に「テネシー州に戻り破たんしつつあった結婚生活をやり直そう」という提案で元妻がテネシー州に到着したところ離婚訴訟の訴状を空港で突きつけられて裁判になった、離婚後には元妻はテネシー州に居住せざるをえなくなり、一時日本に帰国した際に「そのまま日本に留まる」という選択をしたものでした。その後、夫はテネシー州の裁判所で「共同親権を父による単独親権にする」という判決を勝ち取り、それでも政府間の正式な経路で子どもたちを取り戻す道が見つからず、遂に日本の路上での実力行使に出たのでした。日本ではこの男性は「執行猶予」の判決を得て、テネシー州に戻り、さらに裁判所から「元妻への数千万円の損害賠償請求」の判決を得たということです。
ハーグ条約加盟の暁にはこの事件はどうなるものかと考えると、気が遠くなる思いです。現在のところ、ハーグ条約に加盟していない日本で、この男性が子供を取り戻し米国に強制的に連れ帰る判決を裁判所で得ることは困難でしょう。しかし、条約に加入後も、テネシー州の判決も基づいて自動的に強制的連れ帰りが可能になるとは思えません。すでに既成事実として、生まれてから日本に居住しており、一時米国にいた時期を除いて、また帰国後母親と数年にわたり日本に居住してきたという歴史、父親が路上で子供を「誘拐しよう」として警察に逮捕された経緯があるという事実、などを考慮すると、日本の裁判所で争った場合、単純に「父親に返せ」という判決にはならないような気がします。とすると、結果は変わらないかもしれないのに、日本に居住するという現状を維持するために、元妻はまた新たに日本での訴訟に応じなければならなくなる可能性もあるでしょう。
条約加盟に伴う国内法の改正作業も現在進められているようですが、詳細が不明であるため、上記のような「すでに起こった事件」に関しても遡及的に条約の効果が及ぶのか、条約加盟後に起こった事件にのみ適用するのか現在のところ明確ではありません。しかし、取り戻したい方としては、「子を不法に奪われた」という状況が継続しているので、すでに起こった事件について訴訟を起こすことはいつでも可能であり、条約加盟後は条約の効果が及ぶと考えるのが自然でしょう。
とすれば、上記の事件を今後も日本の裁判所で数年かけ、また裁判費用をかけて争うことになるかもしれません。子供たちはその間も日本で成長を続け、18歳に達した時点で、親権についての争いは「時間切れ」の結末を迎えることになります。結果的には無意味な戦いということになるかもしれません。そして、その間の心理的、経済的負担は測り知れません。両方の国で裁判をするということになれば、「経済力がものをいう」という事態になるでしょう。
当該外国でDVの問題があって日本に「逃げ帰った」場合など、日本にいながら当該外国の裁判所でDVの事実関係を争うなどということは、日本にいる当事者に大きな経済的、心理的な負担がかかります。また、日本の裁判所で「当該外国に子供を返還するか否か」という決定をする際にDVの問題が出た場合など、当該外国であった出来事について証拠や証人をどのようにして提示するのでしょうか。経済的に余裕がない当事者は、証拠を当該外国から取り寄せたり、証人を日本に呼ぶことなどは極めて困難でしょう。またDVのケースでよく見られるのは、DVはあったが、警察などに届け出をしていないために(これは非常に多数、家族の恥をさらしたくない、警察に報告すれば夫が逮捕され収入がなくなる、英語が不自由で警察の取り調べの際に自分に不利になるなどの恐れが多い)、いわゆる「証拠」が存在しない場合も多くあります。米国の裁判所、日本の裁判所が「証拠不十分」でDVはなかったと判断する場合も多々あるでしょう。「子供を返還すれば心身ともに害がある」ということを証明することも極めて困難でしょう。将来を予測するわけですから。こんなことを考えると、心が重くなります。5月26-27日にフランスのドービルで開催される主要国首脳会議(サミット)に出席しオバマ大統領と会談する際に「土産」として「ハーグ条約加盟の決定」を伝える予定であるという日本の管首相(日本経済新聞2011年5月20日記事)、また性急とも思える決定に同意した政治家、官僚の面々は、当事者たちが直面するであろうさまざまな問題や経済的負担を十分考えたのだろうか、と疑問に思います。
条約加盟に伴う日本の国内法の改正も含め、今後の成り行きを見守りたいと思います。