国籍法11条1項違憲訴訟の原告として

                                                                                    近藤 ユリ(日本在住)

 私は、国籍法11条1項についての違憲訴訟の原告として2022年6月2日に日本政府を相手取り提訴しました。その後2回の期日を経て、原告側が訴状や第一準備書面で主張したことに対して政府側はすでにある程度の回答を被告第一準備書面(2022年11月18日付)という形で出してきています。
 「ある程度」と説明付きであるのは、訴状にある主張を引用して回答はしているものの、その多くが「争う」「不知」「認否の限りでない」などという言葉が多数繰り返されるのですが、その理由、どのような論理で争うのかについては記述がないものが多く見られたからです。これらについて後の時点でより詳細に具体的にどう争うのかという説明が政府側からされるのか否かが現時点で不明であり、こちらの主張や申し立てに真摯に回答していないという印象を強く持ちました。最終的には、明確に各項目に回答せず、無視するという対応もあると聞いています。

 

居住国の国籍を取得する必要はない?


 今回のエッセイでは、被告側回答の中でも、特に私が強く印象を受けた点についてコメントすることにしました。被告政府側はその第一準備書面の119ページ中で、「家族関係や経済生活、社会生活が国境を越えてしまった」海外在住日本人について、必ずしも当該居住外国の国籍を取得する必要はなく、国籍法11条1項の適用を受けたくなければ、当該外国国籍を取得しなければよいのだ、と主張しています。
外国国籍を取得する必要がない理由としては、「…近時、多くの国では、外国人に対して法律上の保護を与える必要があるとして、一定の制限はあるものの、広範な権利の享有を認めるようになっている(乙第一号証・17ページ)。国家は、外国人が日常生活を営むのに必要な権利能力や行為能力、裁判の当事者能力は認めなければならず(自由権規約16条参照)、移動・居住の自由、表現・思想・信教の自由は、国の安全等に必要な場合を除いて、原則的に制限することはできない(自由権規約12条、18条、19条)とされている(乙第29号証・422ページ)。」としています(被告第一準備書面119ページ(2)アの第二小節)。

 

具体的な裏付けのない反論


 このような主張の具体的根拠は、自らの調査結果としても、第三者の調査に基づく事実や議論として一切引用や触れることなく、机上の空論として主張されているだけです。「自由権規約」の条文を挙げるに至っては、国際的規約が存在するという事実があれば対象諸国でそれらの条文の内容が確実に実現されていることを証明しているかのような書きぶりであり、認識の甘さを露呈しており、実証的に当該諸国の法律やその実施について調査したり、当事者をインタビューして現実がどうなのか調べてから議論するという基本的な知的態度が完全に欠如していることに驚く他ありませんでした。国を相手に提訴された裁判の中で、国を代表して反論する者(日本を代表する官僚たち)がこのような幼稚な議論をして恥じないという事実に唖然としました。
 多くの日本人が居住し、帰化もしている米国のみをとっても、また東京訴訟の原告となっている主としてヨーロッパの国々に居住する方々も、滞在国の国籍がない限り事業をしたり、政府の仕事をしたり、研究職について研究できなかったために国籍を取らざるを得なかった、と述べています。私も2004年に米国籍を取得しましたが、その意思決定に至るまでに様々な体験をしました。ここで一つの要因となった祖国日本への往来の自由の問題について私の経験について書きます。

 

 

米国永住許可(グリーンカード)の不安定性


 過去の日本のパスポートを見ながらこの原稿を書いていますが、そこには1994年12月に日本に帰国し、1995年の3月に出国した記録が残されています。この当時、私は米国アリゾナ州に居住し、アリゾナ州立大学の法学大学院で3年目の課程に在学中であり、1995年の5 月には卒業が予定されていました。もう少しで卒業という時期でしたが、その4年位前から日本にいる母が癌の治療のため入退院を繰り返しており、見舞いのため、それ以前も学業の合間を縫って1992年2月、6月、12月、1993年6月と8月、1994年7月と度々日本に帰国していました。1994の年末に母の病状が重篤であり、死に至る危険が迫っているという知らせを受け、看病のため休学して日本に帰国することを決めました。その後、翌年2月に母が亡くなり、その後の葬式その他を済ませて米国に戻ったのは1995年の3月でした。
 この間、米国の永住許可(いわゆるグリーンカード)を所持していましたが、とり急いで日本に帰国したため「再入国許可」を入手してから米国を出国する余裕はありませんでした。その当時でも、グリーンカードの所持者は、法的には1年までは米国の外に出ても支障なく米国に戻れるはずでしたが、「はず」はあくまでも「はず」であり、実践的には、6か月以上米国外に滞在して米国に戻ると、入国管理官により「グリーンカード」を取り上げられてしまう危険がありました。「米国に居住していないのだから、グリーンカードは必要ないね」というのが担当官が使う理由であり、この危険は担当官の胸先三寸の恣意的な意思決定であり、いつ何時自分がそのような恣意的判断の対象になるか予想はできない状況でした。「幸いなことに」というのはあまりにも悲しい言い方ですが、母が亡くなったのは私が日本に滞在している3か月くらいの間の出来事でしたので、私は米国への再入国の際のリスクを心配せずに米国に再入国でき、学業を再開し、卒業は1年遅れてしまうという結果にはなりましたが、母親の死に目に会うことができ、短期間でしたが最後に看病することもできてよかったという気持ちでした。
 私の場合には状況的に、親の看病のために日本に帰国している間に米国での滞在許可が危うくなるというリスクには直面しないで済みましたが、その後弁護士として働くようになった後にも多くの方たちから「親の看病のための帰国とグリーンカードに関する問題」にいて相談を受け、日本と居住する外国との間の在留許可については永住権・許可であるはずのグリーンカードであっても、最終的には不安定であり、「親が死にそうな状況がずっと続いていて米国に戻ることもできないが、グリーンカードなので在外期間が超過することの恐怖を感じている。もし親がこのまま長いこと「死にそう」な危篤状態が続いた場合はどうすればよいのか途方に暮れるし、毎夜悪夢を見る。私が米国での永住許可を失ったら、米国人の夫と米国に暮らす子供たちとの生活が分断されてしまう。そうかと言って危篤の親を捨てて米国に帰国できない。親を捨てるか夫と子供を捨てるか選べと言われているようで、本当にどうしてよいか分からない」という悩みを多くの人たちから聞きました。私個人の場合には同じ状況に至らず許容期間内に母の看病をし、死に目に会うことができ、葬式も済ませてから米国に戻ることができましたが、事情が少しでも異なっていたら、同じような悩ましい深刻な状況に陥っていたことでしょう。その時点でも、母は亡くなってはいましたがまだ85歳になる父が存命中であり、いつ何が起きるか分からない中で、自分自身もいつ同じような状況に陥るか分かりませんでした。
 上記のような相談を受けた場合、「最終的にはご自分の判断ですが、グリーンカード保持によっても解決されない深刻な事態においての日本と居住国との移動の自由を獲得するためには、米国側(外国側)の条件を考えると米国籍(当該外国籍)を取得することも選択肢の一つとなりますね」という回答をしていました。また他者からのアドバイスを得るまでもなく、同様の状況に直面して、または直面することを予測し、自らそれぞれの当該在留国の国籍を取得することにより、その時点での生活の拠点、家族と共に暮らす拠点に戻る自由を確保しようと決めた方々の例を多数知っています。 

 

親の死に目に会えない   


 今回の訴訟における政府側回答、「外国に移住した者、あるいは家族関係や経済生活、社会生活が国境を越えた者は必ず、外国国籍の取得が必要であるから国籍法11条1項の適用を受けざるを得ないかのような原告の主張は誤りであり。。。」(同上119ページ(2)のアの第二小節)という主張に反し、多くの海外居住者は海外に居住することを選択したからと言って、親兄弟を捨てて外国に居住しているわけではなく、日本にいる家族に対する愛情と互いを思う心を保持したまま海外に居住しているものであり、できる限りで病気になった肉親を看病したり、傍らにいたいという強い感情をもっているものであり、そのような気持ちを行動として実現するために居住する諸外国と日本との間を自由に往来できるようにするためのOptimal最適な対策をそれぞれが選択しているのです。それぞれの当該諸外国の国籍を取得するということも、そのような苦肉の策、自己と愛する家族との絆を保ち、相互にケアし愛情を表現するための人間としての基本的かつ必然的な手段なのです。そのような行動、選択に対して日本政府が日本国籍を剥奪し、日本に自由に帰国する権利を奪うという政策は到底容認できないものです。
このような政策のため、特にコロナによる外国人(日本国パスポートを所持ない者たち)への入国制限のため、多くの日本人たちが「親の死に目に会えなかった」という悲しい体験をしました。私にアドバイスを求めてきた方々の中にもこのような経験をした方が複数名いました。日本が国籍単一原則を理想とするからという理由で、国籍法11条1項の「自己の志望により他国の国籍を取得した日本人は国籍を喪失する」という規定を国の裁量権の範囲内であると主張しどのような状況であれ死守するという政府側の主張は、どれほどの多くの人々に苦痛と苦悩を与え、日本に残っている家族と海外に居住する日本人たち両方を苦しめる結果になったことを正当化できるものなのでしょうか?
 国が主張する「国籍単一の理想」と実際に生きて生活している人々の人権、家族関係や絆の価値とのバランスが主権者である国民、日本国内に居住する日本国民と海外に暮らす日本国民の全てが納得できるレベルに保たれていると言えるのでしょうか?もう一度基本に立ち返って、じっくりと考え直す時期に来ているのではないでしょうか?

 

 

さいごに


 今回のエッセイでは、政府側の主張である、今時の諸外国に居住する日本国民は当該滞在国の国籍を取得する必要があるとは思えない、国籍法11条1項により他国の国籍を自己の志望で取得したという理由で国籍を喪失したくなければ、他国の国籍を取得しなければよいだけのことだ、という単純、かつ諸外国における外国人としての生活の実態、権利の範囲などに関する理解の不足に基づく論理に対し、今後も具体的な実例を集めて反論して行きたいと思っています。
 この他にも、諸外国において学術上、研究上、政府関係の機密を取り扱う業務などのためなどそれぞれの居住国の国籍を取得せざるを得なかった人々の個々の事情についての情報も政府側への反論のため収集し裁判所に提出して行きたいと思います。